2015年9月29日(火)、
今日は地元小学校4年生の御一行が、「総合」という授業の一環で西林寺へ来寺。
現在「社会」の時間で習っている『地域の発展に尽くした人〜五人の庄屋と村人たち〜』
という授業の中で、那珂川町から博多へ番托井堰(ばんたくいぜき)の大工事を成し遂げた、
「豊田徳作翁」をクローズアップ。
西林寺の境内には、その「豊田徳作翁」のお墓があります。
今回はその豊田徳作翁について、番托井堰(ばんたくいぜき)について調べる「総合」の授業です。
毎年地元小学校の4年生達がこの時期になるとやって来ます。
「豊田徳作翁」は、水害と水利に乏しかった当地方の水田のために、
私財を投じ、藩の重圧にも負けず番托井堰(ばんたくいぜき)の大工事を成し遂げた方でした。
ちなみに井堰(いぜき)とは、川を故意的に流れにくくして水をため、
その水を用水路へ送るためにつくられたもの。
江戸時代、1768年頃のお話です。
当時の井堰(いぜき)は、丸太で作ったものがほとんどで、大雨が降るたびに流され、
まわりの農家の人たちは困っていました。これを見た豊田徳作翁は55歳の時、
私財を投げ打って「石」で井堰を作る土木工事を計画しました。
・・・しかし当時は、農民が土木工事をすることは禁止されていたのです。
そこで徳作翁は、なんとか石材で堰を作りたいと何度もお役人に嘆願をしましたが、
結局、許可は下りませんでした。
それでも諦めず何度も嘆願をする徳作翁は、ついに牢屋に捕らえられてしまいます。
牢屋は「水牢」だったそうです。
「水牢」とは、当時の年貢滞納者などに、おおむね腰の高さほどの水に浸かって
牢屋へ閉じ込める拷問でした。この「水牢」は、座ったり、横になって休むことができず、
眠ることも許されない状況下に置かれ、たちまち皮膚がふやけて破れてしまいます、、
そんな水牢に入れらた徳作翁でしたが、それを聞いた当時の黒田家六代藩主、
黒田継高(つぐたか)がこの水牢から釈放させ、井堰築造の許可も下されました。
そのようにして出来た番托井堰(ばんたくいぜき)は、
那珂川町から博多の街の田畑を今に潤してきたのですー
西林寺では、毎年7月12日の「さなぼり」(田植えの無事終了を感謝する行事)に
水利組合の方々が当寺へ集まり、豊田徳作翁の遺徳を偲び、功績を讃えてお参りをします。
そんな郷土史を知る、地元小学校の課外授業でした。