浄土真宗本願寺派 松光山 西林寺

課外授業、地元Y小学校4年生来寺。

2017年9月28日(木)、
今日は地元小学校4年生の御一行が、
「総合」という授業の一環で西林寺へご来寺。

『地域の発展に尽くした人〜五人の庄屋と村人たち〜』という授業の一環で、
那珂川町から博多へ番托井堰(ばんたくいぜき)の大工事を成し遂げた、
「豊田徳作翁」についてのおはなしです。



西林寺の境内には、豊田徳作翁のお墓があります。
番托井堰(ばんたくいぜき)について調べる「総合」の授業。
この時期になると、毎年小学校四年生達がやって来ます。



豊田徳作翁は、水害と水利に乏しかった当地方の水田のために、
私財を投じ、藩の重圧にも負けず番托井堰(ばんたくいぜき)の大工事を成し遂げた方でした。

ちなみに井堰(いぜき)とは、川を故意的に流れにくくして水をため、
その水を用水路へ送るためにつくられたもの。

江戸時代、1768年頃のお話です。
当時の井堰(いぜき)は、丸太で作ったものがほとんどで、大雨が降るたびに流され、
まわりの農家の人たちは困っていました。これを見た豊田徳作翁は55歳の時、
私財を投げ打って「石」で井堰を作る土木工事を計画しました。

・・・しかし当時は、農民が土木工事をすることは禁止されていたのです。
そこで徳作翁は、なんとか石材で堰を作りたいと何度もお役人に嘆願をしましたが、
結局、許可は下りませんでした。

それでも諦めず何度も嘆願をする徳作翁は、ついに牢屋に捕らえられてしまいます。

牢屋は「水牢」だったそうです。

「水牢」とは、当時の年貢滞納者などに、おおむね腰の高さほどの水に浸かって
牢屋へ閉じ込める拷問でした。この「水牢」は、座ったり、横になって休むことができず、
眠ることも許されない状況下に置かれ、たちまち皮膚がふやけて破れてしまいます、、

そんな水牢に入れらた徳作翁でしたが、それを聞いた当時の黒田家六代藩主、
黒田継高(つぐたか)がこの水牢から徳作翁釈放させ、井堰築造の許可も下されました。

・・・そのようにして出来た番托井堰(ばんたくいぜき)は、
那珂川町から博多の街の田畑を今に潤してきたのですー

豊田徳作翁は、農民達のために命懸けで行ったその功績が認められ、明治13年に石碑が建てられました。
そして豊田徳作翁のお墓はこの西林寺の境内にあります。

西林寺では、毎年7月12日の「さなぼり」(田植えの無事終了を感謝する行事)に
水利組合の方々が当寺へ集まり、豊田徳作翁の遺徳を偲び、功績を讃えてお参りをします。

そんな郷土史を知る、地元小学校の課外授業でしたー

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