日記帳

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西林寺 報恩講法要。

2021年11月4日(木)〜6日(土)迄、【 西林寺 報恩講法要 】を無事にお勤めすることができました。

「報恩講」とは、宗祖親鸞聖人のご遺徳を偲ぶ、浄土真宗で一番大事な法要です。

報恩講のシーズン

親鸞聖人の御命日は、旧暦の11月28日。新暦では1月16日です。
全国の真宗寺院においては、その前後、早いところでは10月中旬から翌年の1月迄、「報恩講のシーズン」として、各お寺で報恩講がつとめられます。

ちなみに「真宗大谷派」のご本山 真宗本廟(東本願寺)では、旧暦に合わせ毎年11月21日〜28日まで報恩講が勤められ、

私たち「浄土真宗本願寺派」のご本山 本願寺では、新暦の御命日に合わせて、毎年1月9日〜1月16日まで報恩講がつとめられます。

西林寺においては、今年は日程的に少し早く(毎年ご講師のご都合に合わせ、日時が決まります)、11月4〜6日で法要を勤めさせていただきました。

ご講師は、中川 清昭 師(三笠組 願應寺 前住職)。私の大学時代の剣道部の大先輩でもあります。

今年は、「永代経法要」も、「秋季彼岸法要」も、すべて緊急事態宣言で中止となってしまい、実質この「報恩講法要」が、西林寺にとっては今年最初で最後の法要となりました。

そのような事もあってか、今年は三日間とも沢山の皆さんがお参りに来られ、様々な場で久々の再会を喜ぶ姿が見受けられました。
…住職として、こんなに嬉しいことはありません。久々にご門徒の皆さんと共にお聴聞させてもらった、有り難い三日間でしたー

法要中、門徒会館では中継をつなげ、密を懸念される方のためにゆっくり聞いていただく会場として設けていましたが、利用される方はほとんどなく(苦笑)、やはり皆さん、せっかくお寺に来られたのだからと「ライブ感」ある本堂でお聴聞されました。

ご講師の先生とともに、新しい試み。

法要前、中川先生:『今回、ちょっとご法話の中で初めての試みを行おうと思う。アナタなら応えてくれそうだから。』と。

中川先生:『私が合図をしたら、ご法話の最中に、最近インターネットで見つけた永六輔さんの歌をBluetoothで流してほしい。その歌の歌詞の意味を味わい、ご法話を展開していきたい。』とのこと。

ご法話の最中にyoutubeからの音源をBluetoothで流す・・・試みたことはないですが、剣道部の先輩が仰られることは絶対です。(笑)

住職:『ハイ、承知しました!』 住職、責任重大。

『生きているということは』 歌:永六輔

ぶつけ本番で、ネットから音楽をながせるか、、ドキドキでしたが、永六輔さんの、昭和の隠れた名曲が本堂内に流れはじめました。

『生きているということは』
歌詞:永六輔/作曲:中村八大

生きているということは
誰かに借りをつくること
生きていくということは
その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう

生きていくということは
誰かと手をつなぐこと
つないだ手のぬくもりを
忘れないでいること
めぐり逢い愛しあいやがて別れの日
その時に悔まないように
今日を明日を生きよう

人は一人では生きてゆけない
誰も一人では歩いてゆけない

 

この歌の歌詞には、お釈迦様の言葉がずいぶんと散りばめられていますー

特に印象深かったのは、

『生きているということは 誰かに借りをつくること
生きていくということは その借りを返してゆくこと』

仏教で言うところのまさに『 縁起 』。

様々な「縁」があって、この私は今、生きている。
今日の「私」があるのは、様々な方々やご縁のおかげであり、色んな「縁」がつながって、今の私が存在しています。

永六輔さんは、『私たちは目には見えない「誰か」に「借り」を作りながら生きている』と、『そうしなければ生きていけない』と表現されています。

「借り」と表現される言葉は、仏教の言葉でいうところの「ご恩」だと思います。

私にしてくださった行為が何であったかを心に深く考え、思い、知るということ。

『生きているという事は、すでに他者から何かしらしていただいているご恩があって、そんな「ご恩」を特定の人に「恩返し」するのではなく、次の人「恩おくり」するのです、と、中川先生。

恩おくり』。
私の大好きな言葉。

私自身、カンボジアの活動も、商店街再生事業に関わる活動もすべて、これまで私自身がいただいた「ご恩」を、次の方へ「恩おくり」する活動だと思っています。

・・・そのように考えていくと、「報恩講」は、宗祖親鸞聖人のみ教えに出会えたよろこび、そのご恩に報いる法要ですが、親鸞聖人からいただいたご恩を今度は次の世代や、これまでご縁のなかった方々へつなげていく、まさに「恩おくり」する法要でもあるのかなぁ、、と、新しい視点をいただいた気がしました。

ご門徒の皆さんとともに、久々にご法話をゆっくり聴かせていただいた、有り難い三日間でした。