4月の西林寺 伝道掲示板。
「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。
「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。
ブッダ
『 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり 』
浄土真宗の宗祖 親鸞聖人は、ご著書『愚禿鈔(ぐとくしょう)』の冒頭で、
『 愚禿(ぐとく)が心は、内は愚にして外は賢(けん)なり 』
と述べられています。ちなみに「愚禿(ぐとく)」とは、聖人ご自称のお名前のこと。
日頃、私たちは、名号(南無阿弥陀佛)のいわれを聞かせていただくのですが、ここで言う「聞く」というのは、名号(南無阿弥陀仏)のいわれを聞いて「疑う心のない」ことをいい、それが「信心」というものであると親鸞聖人はお示しになっています。
しかしながら、私たちはその「聞く」ということがなかなかできません。。。
それは、自分の知識や経験から得た力に「執着」しているから。
時に自分の愚かな執着心を自覚することはあっても、「本当の私の姿」は認めようとしない。
いや、認めることのできない私がココにいます、、。
口では「私は愚者」と言いながらも、心の中ではどこかで他人と自分を比べていて、自分の方が他人よりも賢いと思っている、、、
「内は愚(ぐ)」であることに気付いていないのです。
自分を真摯に省みて、本当の意味で「愚者である」ことに気づいていくー
地位や名誉に執着する自分の内に秘めた本当の愚かさを自覚した時、はじめて名号のいわれを自然に聞く事ができると仰っています。
親鸞聖人は、「内は愚にして外は賢なり」とご自分の姿を厳しく見つめて、愚かさを自覚され、自分の心の有り様を「恥ずべし痛むべし」と告白し慚愧されているのです。
言葉で言うことは簡単なのですが、自分自身「愚者」を自覚する事が一番難しく、まさに「私自身の事」としていただいた言葉を、4月の掲示板に挙げさせていただきました。