日記帳

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『 西林寺 秋季彼岸法要 』

2022年9月17日(土)、今年はお彼岸入り前の彼岸法要。
そして、西林寺としては珍しい「週末」に行う西林寺・彼岸法要でした。

・・・しかしながら、法要二日目は最強クラスの台風が福岡へやってくる事からやむなく断念。
「台風」で法要を中止にするということ自体、私が京都から帰ってきて二十数年が経ちますが、初めてのことです。

台風に、コロナに、、2019年に住職を継職させていただいてからまだ一度もまともに法要が務められていません。
まだまだ我慢の時期なんでしょうね。。。

そんな中の法要初日、沢山の方にお越しいただきました。

彼岸法要ご講師:南荘 摂 師

ご講師は、東京教区 静岡西組の教覚寺ご住職 南荘 摂(なんじょう おさむ)師。
私が京都・ご本山の【子ども若者ご縁づくり推進室】で一緒に活動させていただいた同志でもあります。

今やご本山をはじめ全国で活躍されている若きご住職です。
東京外大在学中に一年間アメリカへ、もう一年間はブラジルへ留学をされた異色の経験をお持ちで、理路整然としたとてもわかりやすいご法話を、日本語で、英語で、さらにはポルトガル語でもなさるバイリンガルなご住職です。

築地本願寺英語法話より

本当は昨年の彼岸法要に先生をお迎えする予定でしたが、…残念ながらコロナ感染拡大と共に中止となってしまいました。
今年は満を持して、二年ぶりの彼岸法要に南荘先生をお迎えして、、、のはずだったのですが、二日目が中止に。

ですが、だからこそ私たちも、一言一言丁寧に紡いでくださる先生のお取次を、大切にお聴聞させてもらいました。

お彼岸とはー

さて、そもそも『お彼岸』とは、どういう意味なんでしょう。

『お彼岸』とは、秋分の日を挟む一週間の事を「お彼岸」と言い、今年は9月20日〜26日迄秋のお彼岸にあたります。

彼岸とは「此岸(しがん)」に対する言葉で、「此岸」(こちらの岸)とは、私たちの住む世界のこと。それに対し「彼岸」(かの岸)は、「極楽浄土」を意味します。お彼岸は、正式には『到彼岸』といい、すなわち私たちの「迷いの世界」から「悟りの世界」にいたるという意味です。

「暑さ寒さも彼岸まで」とよく言われます。本願寺第八代宗主の蓮如上人も、春秋の彼岸のことを『昼夜の長短なくして、暑からず寒からず、〜仏法修行のよき節』と仰られました。一年で一番過ごしやすいこの時期に、仏法を聴くことの大切さを忘れないようにしましょう、ということです。

それはいわば、“ 交通安全週間 ” と同じですよ 、と南荘先生はわかりやすい表現をされました。

「交通安全週間」とは、交通安全の大切さをみんなで今一度忘れないようにしましょうというキャンペーン。
同じように、「彼岸」は、お聴聞(ほとけさまのお話を聴くこと)を大切にしましょうというキャンペーン週間で、亡き方々を偲びながら、浄土真宗のみ教えをあらためて聞かせていただく、南無阿弥陀仏のお心をきかせていただく、という、大切な一週間なのです。

今回の御座では、浄土真宗のみ教えにおいてとても大切な「往相」と「還相」をキーワードに、浄土真宗のみ教えをわかりやすく聴かせてくださいました。

最後に、南荘先生は敬愛する中西智海先生の言葉をご自身で作曲されたメロディにのせて歌いあげられました。

人は去っても、その人のほほえみは 去らない
人は去っても、その人のことばは 去らない
人は去っても、その人のぬくもりは 去らない
人は去っても、 拝む手の中に 帰ってくる 

(中西智海『ひとときー私をささえる言葉』より)

「先生の詩が好き過ぎて、素人ながら作曲しました」と南荘先生。
・・・しかし、誰もが口ずさめる印象的なメロディ、、その完成度たるや完全に素人の域を超えていました(汗)

浄土真宗のみ教え、南無阿弥陀仏のお心をきかせていただく私たちにとって、死は永遠の別れではありません。
手を合わせるところに、亡き人と会える世界があります。

亡き人が仏さまのはたらきと一つになって、私たちの所に還って来て下さるー

なかなか難しいところではありますが、「自分の常識を超えて聞いていく」。
たとえ理解できなかったとしても「お心を味わっていく」ことが大切であると、仰られました。

西林寺彼岸法要。二日目は残念ながら中止となってしまいましたが、短い中にも味わい多き、今年の彼岸法要でした。