先日、友人であるタイ人のポムくんがお寺にやって来ました。
その日はポムくんの誕生日。
・・・タイでは、自分の誕生日には、まずは一番に「お寺にお参りに行く」という習慣があるのです。
いのちをいただいた事への感謝を、まずは仏さまにお礼申し上げる日ー
そしてお家に帰ってご両親の前でひざまづき、いのちをいただいた事へご両親に感謝を申し上げる日ー
・・・なかなかできないことですね、、。本当に頭が下がります。
ポムくんは日本へ来てもう二年目。
つまり日本で誕生日を迎え、一緒にこうして本堂でお参りをするのも二年目なのです。
まずは一緒にタイ仏教でも馴染み深い「三帰依文」を一緒に。
ブッダンサラナンガッチャーミ
ダンマンサラナンガッチャーミ
サンガンサラナンガッチャーミ
「三帰依文」(さんきえもん)
自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して、無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。
自ら法に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて、智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理(とうり)して、一切無碍(いっさいむげ)ならん。
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『三帰依文(さんきえもん)』の最初の文に、
「人身受(じんしんう)け難(がた)し、今すでに受(う)く。仏法聞(ぶっぽうき)き難し、今すでに聞く」
とあります。
人間として生まれることはとても難しい。そのことを今初めて気付くことができた。
仏法についても同じことだという意味です。
こうして、「人間」としていのちをいただくことの難しさを、
お釈迦さまは、広大な大地の砂に例えられました。
それは数ある砂の中から「ほんの一握りの砂」ほどわずかなものだと。
さらにそこから「仏法に出会っていく」、「仏さまの教えに出遇う」ことができるのは、
その一握りの砂から「ほんのひとつまみの砂」なのだだとー
自分自身とポムくんも、こうして国境を越え、同じ手を合わせること、
「仏法」を接点として出あうことができた。
お参りさせてもらいながら本当に「有り難い」ご縁だなぁと、、。
「有り難い」とは、「有る」ことが「難しい」と書きます。
こうして一緒にお参りさせて頂くご縁は、
本当に「有る」ことの「難しい」ご縁だとつくづく思いながらお参りさせてもらいました。
カンボジアの活動は今年でもう14年目になりました。
この活動を通して、現地の友人達はもとより、福岡在住のカンボジア人、タイ人とも、
同じ「仏教」を共通のキーワードに、たくさんの「法友」ができました。
福岡在住のカンボジア人やタイ人にとっても、
「異国の地で手を合わせる場所がある、心の拠り所があるのは、メンタルな部分でとても大きい」と。
私は彼らからいつも沢山のことを学ぶ良い機会をいただいています。